神さまのような少年のような君へ

沼をのぞき込む間もなく気づいたら落ちている日々

推し不在の現場に入った ~Sexy Zone LIVE TOUR 2019 PAGES~

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Sexy Zoneでは、聡ちゃんが好きだ。特に、ステージ上で化けるところが大好きだ。わたしが聡ちゃんのパフォーマンスに惚れたのは今年の2月にSexy鑑賞会を開いていただいたときだったので、その時点ですでに彼はお休みに入っていたのだけれど。

そして、それ以降Sexy Zoneの現場に入ってみたいな~と思っておりついに!去る5/4の夜公演@横浜アリーナに参戦してきた。幼いころに行っていたSMAPのコンサートを除けばGR8ESTに続く2回目のジャニーズのコンサート。初の生Sexy Zone

 

 

参戦前は、とりあえずうちわに書く文字が決まらない、参戦服が決まらない、うちわ買う?誰のうちわを!?と悩みに悩み。それでもなんとか(?)迎えたコンサート当日。会場周辺を歩くファンの参戦服を見てグループごとの文化の違いを感じながら(関ジャニ∞とは違ってカラーギャングが絶滅している)、横アリへ。グッズ列はほぼほぼ並ばず、すんなり中島さんのうちわとペンラを購入。いつか重岡大毅さんのうちわを手に入れたときにけんしげ♡ってしたさもあり、今回ケンティを召喚(いかにもオタクらしい理由)

 

ちなみに今回は立ち見席だったので、集合場所に集まる→整理番号順に列に並ぶ→入場→見やすそうな場所を探す、という経験もした(そもそも現場経験が少ないので、これに限らずなにもかも初体験同然)。実際に会場入りして最初の感想としては、いや普通にめっちゃ舞台近ェ~~~~~~~~~~~!!!!!!!という感じ(これに関しても、そもそも初アリーナなので何とも言えない)。始まって前の方々が立ち上がったら視界良好ではなかったものの、隙間を探せばよく見えた。アリーナすごい。

 

とりあえず今回のコンセプトとしては、推しという推しもいないし全体を見よう。セクシーをたっぷり浴びよう、というところでした。初めは。

 

 

それで本編なんですけど。いや~~~~~~~~~~~、ね。やられました。菊池風磨…………(全体を見る、とは?)

 

とにもかくにも風磨くんの歌に、ガツンとやられてしまった。特にアンコール前ラストのCRY。それまでは演出すごい、みんな顔がいい、思ってたよりMC面白いじゃん、これがふまけんか、エロ!エロです!とか、いろいろ思うところもあって忙しかったんだけど、CRYの風磨くんのせいでそれまでの記憶1回全部消し飛んだというか、なんというか全部の感情がいったん無になった。

CRYの前何曲かではおいしいパートを歌ってなかったり(記憶違いでなかったらゼンゼンカンケイナイの「その場しのぎで笑っていたくないWo e wo e o」とか、ROCK THA TOWNの「もっと弾けろ」とか)、他のパートでも少し温存した歌い方してるのかな?という感じだったりして、あ~~~ここ風磨くんガッときてほしかったな~~~~~~~っていう気持ちが溜まりに溜まっていたので余計に。CRYの「Go Love Yourself」でまんまと昇天してしまった。ありがとうございました。CRY後、アンコール~公演終了まではもうCRYの余韻でひとり横アリの亡霊と化してた………

 

何が刺さったんだろうとよくよく考えてみれば、風磨くんの歌声の、声の響きが1つでないところがとにかくツボ。もともと、ハスキーボイスとか酒灼けみたいな声とか、一音出した時に重なっていくつもの音が響く声の人が好き。前述のふたつとはまた違うんだけれども、風磨くんの歌声もそれに似たような深さがあった。

CDやDVDで聞いた時点でもそれは感じていたけど、それよりはエッチな味付けで歌う人だなあという印象が強かった。それが、生で聞いたらもうギャンギャンに痺れた。とはいえ、気づいたのはだいぶ後半だったわけだけど。生歌を聞いて一曲目ですぐにビビッときた!とかだったらもうちょっとドラマチックだったけど、人生そんなに上手くはいかない。

 

ケンティも思っていたよりも結構重なって響く声で、反対に勝利くんとマリウスはどちらかというとまとまっているタイプかなあ。安定感という視点では、マリウスがトップかも(?)

 

あとはダンス。拍に遅れないながらも時間をたっぷり使って踊れるの、とんでもなくセクシーだなと風磨くん見てて思った。身軽に踊る人が大好物で、これまでそういうタイプの人を追ったことはなかったから、自分としては新たな発見。キメは決めて、でもいつもいつもぴったりではなくて。ああやって踊れるの、すごい勇気というか才能というか。絶対分かっててやってるのな〜〜〜〜ズルいな〜〜〜〜〜〜菊池風磨〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

全体を通して言えば、「セクゾの現場は楽しい」「演出がすごい」との前評判を裏切らない、メチャクチャに楽しいコンサートだった。リペコンのDVDが大好きで、生はどんな感じかなあって期待していたんだけど、その期待をかる〜く超えてくるSexy Zone

 

登場は前からっていう固定観念(経験値の低さを露呈)を裏切る真ん中からの登場。街並みから出てくるんかなって思ってたわ。4点からそれぞれに登場して、徐々に集まっていく様、強すぎる。東西南北の化身か?そこからテンションがもう一気にマックスでした。黄色い歓声って本当に出るんですね……………

 

それから、映像の使い方が本当に上手。オープニング映像に始まり、全体を通してのPAGESのコンセプト映像、ゼンゼンカンケイナイ前のVTR。かっこいいとか面白いとかだけじゃなくて、それはもちろんあった上で全部次の演出のために必要な要素になっていた。コンサートを見ていて、ここってこの映像である必要あった?みたいな、いわゆる浮いてる映像があるとそこでいったん気分が小休止になってしまうことがある。PAGESコンはその対極で、あんな演出こんな演出が次々に!となって最初のテンションが最後まで途切れなかった。そう感じたのも、映像がコンサートのストーリーに乗っかっていたのが大きい気がする。オープニング映像のWANTED→カラクリだらけのテンダネスの演出でのテンションのブチ上がり方、きっとしばらく忘れない。

あと曲中での映像とのコラボも良かった。マリウスソロ、風磨くんソロ、ケンティソロも映像が目一杯活かされてる感じがたまらんかったな。紅白のカラクリだらけのテンダネスみたいなやつ(?)とか、Sexy Zoneの頭とかも(前が5人分の影でグッときた)…………挙げてくとキリがない。セクシーたち、心得てるな………マジで………

 

 

これまで現場に入ったことがなかったわたしが初めて見たSexy Zoneは、あまりにも強かった。エンターテイメントとしてすごく洗練されていて、非の打ちどころがなかった。「聡ちゃんが推し」なんて言っておきながら、もしもこれがSexy Zoneの完全な姿だよと言われたら納得してしまうぐらいには。推しもいないし、緩くでも楽しめたらなと思っていたのが恥ずかしくなるぐらいの衝撃だった。

でも、本当はそうじゃなくて。わたしにはまだ分からないけれど、きっと4人が5人分、それを超えるぐらいに磨いて磨いて見せてくれたのがあのPAGESコンだったんだろうな。

だからこそ、聡ちゃんが戻ってくるのがものすごく楽しみになった。ここに4人とはまた違う個性を持つ聡ちゃんが戻ってくる。前よりもきっともっと強い5人になるんだろうなと思うと、もはや空恐ろしさすら感じる。

令和の世で、間違いなく時代を創っていくであろう5人の姿を、わたしも追いかけてみたいと思った。

 

映画「少年たち」を観ました ~一期は夢よ ただ狂へ~

往年のJr.ファンというわけではなく向井康二くん、ひいてはSnow Manが気になってるただのにわかなのですが、なんだかんだと2度映画「少年たち」を観ました。わたしはこれまで同じ映画を2度も観たことはなかったので、これが……ジャニーズエンターテイメント………!という感じ。 

  

1回目

公開日にお邪魔してきました。前日にネットで席を観たらもうほとんど空いてなかったんですが、どうしても公開日に観たかったので前から3列目の席を取りました。映画館といえば後ろで見るのが常なので、スクリーンの威圧感がスゴイ。

 

映画の感想を一言でと言われたら

「マジで目が忙しい」
これに尽きました。スクリーンはデカイしカメラの切り替わりは速いし何より人数が多い!オタクの標準装備「自担追尾力」がこんなに試される場には未だかつて立ち会ったことがない。

わたしもジャニオタの端くれとして、一瞬たりとも逃さないように向井康二さんをロックオンしてました。これはジャニオタあるあるだと思うけど、どんなに切り替わりが速くても人が多くても前にいなくても服が同じでも、目はちゃんと自担を追ってるっていうアレ。

結果、他が全く見えませんでした。常時双眼鏡構えてる状態。これジャニーズに興味がない人からだとどう見えるのかなあ。団体芸に見えるんかなあ。

 

ところでなんだけど、黒房のスピンオフまだ〜〜〜〜〜〜???????って感じ。事なかれ主義のようでありながらなんだかんだ和やかに楽しくやってる感じにスキが止まらなかった……絶対あの人ら刑軽いでしょなにしたの(万引きはダメだよ……)

出番はそんなに多くなかったけれど、毎度クスッとさせられたし、突然のHappyはすごく爽やかでキュートで良かった。印象に残った2シーン(横山くんのマネする向井康二、将棋中の向井康二)がアドリブだったとパンフレットで知って嬉しくなった。特に横山くんのマネするシーンを観たときは、なんでか好きが溢れてその後しばらくぼんやりしてた。

でも、圧倒的に関西贔屓の女としては、黒房の活躍ぶりがもっと見たかったな〜という印象。東京ジュニアと関西ジュニアと集まって撮ったのは本当に数日だけだったってどこかで見た気がするけど、観てるときも少しそれを感じてしまった。やっぱり東京と関西の間には、結構高い壁があるのかな。

そうは言っても、やっぱり黒房観られて嬉しかった。

 

ストーリーに関しては引っかかるところがなかったわけじゃないけど、涙腺ガバガバなのでしっかり泣いた。

特に、ラストの奈良監獄でのショーのシーン。眩くて、感動してしまった。観ていてふと思い出したのは、閑吟集の小歌

「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」

(意味:何になるだろう、まじめくさってみたところで。どうせ、一生は夢だ。ただ狂えばいい)

 

川﨑皇輝くん演じる少年が、横山さん演じる中林に「お父さんがいたところが100年経ってこうなったんだね」と言うシーンが、冒頭とラストでたしか2回あったんだけど、そこは迷子になってしまった。

100年経って、というのはお父さんがいた時から数えて?奈良監獄が1908年に誕生してから数えて?2012年やら2017年やらと劇中でも表されていたし、普通に考えたら後者なのかなと思うんだけど。最後の「子供は大人になれるけど、大人は子供に戻ることはできない。だから時を止めて」というメッセージとなにか関係があるのか、などと深読みしてしまっている。

 

 

2回目(応援上映

応援上映を初体験。赤・青・白あるサイリウムの色が選べないと知ったときから「わたしは何房入りすることになるんだろう~~~?」ってすごくドキドキしていたんですが、映画館に着いたらなんと売り切れで、ショックでした。甘く見てた………

 

サイリウムが無かったのと、一人で行ったのでちょっと肩身の狭い思いをしましたが、前回観たときには全く気づかなかったところに気づけたり(シュンソクがあんなに走ってるって知らなかった)、この子人気なんだなって分かったりしたのが面白かったな。

やっぱり1人で観ていたらどうしても自担ばかりを追ってしまうから。それが、突然目がいっぱいになった!みたいな感覚だった。みんながそれぞれ自分の好きな人を追って、観たものを共有できる。DVDの鑑賞会とはまたちょっと違って、面白い経験ができました。

 

ただし、わたしは中林看守が死んだとは読み取ってないので、そのいじりに関してはう~~~んってなってしまった。やっぱり解釈違うことは、、、あるよね、、、、、

 

 

おわりに

少年たちの公開が発表になったころからかな?最近のJr.の一大ムーブメントはすごかった。ISLAND TVやshowroomでの配信が始まり、地上波で目にする機会も一気に増えた。ほんと、公開が発表になったときには出演者2人ぐらいしか知らなかったわたしも今なら全員フルネームで言える。なんなら書ける。すごい

少年たちがこのムーブメントのピークではなくて、通過点の1つであってほしいと、本当に勝手ながら願っています。

 

そして、向井康二くん。彼のアドリブを見て、ああ好きだなと思った。

初めて知ったのは、滝沢歌舞伎期。三宅健のラヂオ滝沢電波城で紹介されていたから。塩こうじよりも向井康二の自己紹介がすごくインパクトに残って、初めて覚えたJr.が彼でした。

そして、関ジュからSnow Manへ。ISLAND TVに登録するとき、特に推している人もいなかったから、心から応援したい彼を好きなアーティストに選びました。それから、なんとなく気にして見ていたのだけれど。

少年たちを観て、もっと色々な顔を見てみたい。ゆっくりのんびりと追いかけてみたいなあと思いました。

 

 

映画 少年たち

映画 少年たち

  • 発売日: 2019/12/04
  • メディア: Prime Video
 

 

 

結局「マニアック」は何を伝えたかったのか

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日時 2019/2/12 Tue 18:30

場所 新国立劇場 中劇場

主演 安田章大

 

まず初めにストーリーについて一言で述べておくとすると、まったくもって泣ける話ではなかった。大団円では「どういう感情を抱くのが正解か分からない」という困惑。だったのだけれども。幕が下り、ギターを片手に腰を低く落としながら歌う安田くんが幕前に一人残され、そして金と赤のテープが空を舞い、会場が暗転したとき、私はそれ以上ないぐらい完璧に泣いていた。

安田くんが、思っていたよりもずっと小さくて。いま舞台に立って、エネルギーをぶつけている。その身体のどこにそんな表現や思いやエネルギーが詰まっているんだろうと劇中何度も思わされた(特にメイと2人で歌うシーンではそれを強く感じ、そんなシーンでないのにも関わらず目頭が熱くなった)。そして、そのエネルギーの受け手の一人として、わたしがここに存在している。見に来られて良かった、出会えて良かったという、それ以外の感情がすっかり抜け落ちて。いま観終わったばかりの舞台の感想ですらすこんと抜け落ちてしまって参った。

観終わった直後は何も考えられなかったが、そこから幾分復活して、つたない記憶をなんとか呼び覚ましながら「あれは何だったのか?」「何を伝えたかったのだろう?」と思いを巡らせる日々を過ごしている。なんとなくまだ答え合わせはしたくなくて、自分の感じたマニアックを振り返るにとどめて。悶々としているけれども、余韻をたっぷり楽しむためにはまあ悪くないかなあなんて考えている。

 

「結局、マニアックは何を伝えたかったんだろう」

何日かかけてようやくたどり着いた私の答えは、「これってものを見つけたら気が狂うほど愛し抜け」だ。いやいや結局そこなの?みたいな感じで自分でも拍子抜けだけれども。

最初、「観客に新たな感情・感覚を与える」ことだけがマニアックの狙いだったのか?と思ってしまうぐらい、物語としての主題が見えづらかった。最後のアキラの赤のストラトを手にしての歌は、「一生は一度しかない。たとえ一人になろうとも、自分がまともだと思う道を選んで生きていく」といった感じ。「みんなに流されない。自分を信じることが大切」はたしてこれが主題だったのか?劇中を通じて考えてみても、diversityを語るために作られた作品であるとは言い難かったように思う。

 

ここで、キャッチコピー「これってものを見つけたら気が狂うほど愛し抜け」について考えてみる。これは矢猪院長の歌の一節であるが、彼の言う「これってもの」はあまりに異端に感じられ、まさにマニアックであった。だからこのキャッチコピーは、異端を愛する者の言い分だというイメージを自分の中のどこかで持っていた。それに対して、一度は救おうとしたメイが異端だと分かり退けるというアキラの選択、そして最後の歌は劇中の人の考え方の中では幾分まともに感じられた。このため観劇中は気付けなかったけれども、よくよく考えてみればアキラの最後の歌にも確かにこのキャッチコピーに通じるものがあったと思う。

「一生は一度きりだから、自分の信じた道を行く」と言われてもなんだか普遍的なものに感じられて、「ふぅんそうなんだ」というのが最初の感想だった。でも「これってものを見つけたら気が狂うほど愛し抜け」という文句を、アキラの考え方やラストの状況等々を考慮しつつアキラの言葉で「アキラの歌」という形にまとめるとあのようになるのだ、と考えるとなんだかしっくりくる。2人で生き残ったというある意味とてもドラマチックな状況に流されず、メイを異端だと判断して退ける。この選択こそがアキラにとって気が狂うほど愛し抜くべき「これってもの」だったのだろう。

ここで重要なのは、まともに見えたアキラにとっての「これってもの」も、違う切り口で見たとき、違う状況に置かれたときにもまともに見えるとは限らないということだと思う。実際、メイが「私のような奇病の人が増えれば、それが当たり前になる(=異端ではなくなる)」と言っていたのがよく記憶に残っている。メイの言葉の裏を返せば、現実社会で生きる観客からしてみればマニアックではないと感じられるアキラの思考も、必ずしもまともとは限らないということだ。「100%マニアックでないもの」なんて存在しない。メイの台詞はそれを暗に示していたのではないか。そして、それでもアキラは自分の思う道を選んだ。

 

では、なぜ最後の歌を聞いたときにすぐにその思考に至らなかったのか。なぜ、「何が何だか分からなかった」と感じたのか。アキラは全力で歌っているし、歌詞だって力強い。間違いなくラストシーンで、ある意味で神々しさすらあった(もちろん、金のオブジェに乗ったメイだとか、祭りのような雰囲気だとかは奇妙だったけれども)。なのになんだかすっきりせず、最後の歌を主題として認識できない。むしろ、「え?何?この歌」という違和感。この違和感の正体は、「アキラがストーリーの中でその歌に見合うような強い意志を見せ続けていたわけではない」というところから来ていたのではないか。

「メイを連れて逃げようとする」「院長に背こうとする」そんなアキラの姿が劇中を通して描かれていた。しかし結局彼がラストで選んだ道は、メイからも逃げること。そんなアキラに「自分の道を」と歌われたところで、説得力も、まして感動もない。例えばアキラが最初から最後まで自分の意志を貫く男だったとしたら、または初めは全く意志を持っていない男だったとしたら、きっと最後に受ける印象は変わっていただろう。

ラストシーンをあのように描くことで、観客に違和感を与える。間違いなく主題に沿っているにも関らず。「主題を描き切る」なのに「観客に疑念を抱かせる」。このパラドックスの両立こそが、マニアックの目指すところであり、挑戦だったとしたら?見事にしてやられた!と思わざるを得ない。

 

カーテンコール
カーテンコールは三回。一回目はキャストさんが順番に。トリ前に古田さんが、キャスト陣の間を縫って真ん中から。そして、そのあと同じように安田くんが真ん中から。古田さんが堂々と前を向いて歩いてきたのに対し、安田くんは左右のキャストににこにこと会釈をしながら出てきた。そこにもまた安田くんの人柄が表れてるのかなと感じた。軽く手を振りながら向かって左にはけ、最後に一礼。そして、拍手に応えて二度目。はけるときには古田さんになにやらチャーミングに笑いかけて。さらに三度目、最後の回は投げキッスから、腕をぐるっと回していたのが、よく記憶に残っている。そのあと、古田さんに向かって軽く手を合わせていた。
 


雑記(掻い摘んでちょこちょこ)
・思っていた以上に舞台を跳ね回っていた安田くん。歌声はもちろん、身軽かつダイナミックなダンスに魅せられた

・U.S.A風のダンスも

・とにかく声量がすごくて圧倒された。アキラもさることながら、婦長が圧巻だった。

・アコギを使っての歌が多かった。そんな中一曲あったスタンドマイクでの曲(I will rescue〜)も印象的だった。その際の衣装は赤いジャケット

・通路を活かした演出も

・頭を足にぴったりくっつけるまでお辞儀する記者とアキラ

・メイ(アイドルVer.)の歌唱中に、口を開けて左右に揺れるアキラ

・ビジュアルは黄色いレンズの眼鏡に、揺れないピアスをぱちぱちと。基本はオレンジのTシャツにつなぎの植木屋スタイル。

・転校を繰り返しており、通学路に咲く花が友達だった幼き日のアキラ。しかしまだ花は育てたことがない

・「犬塚アキラ」を観ながら、思った以上に「安田章大」を捉えている自分に驚いた。だけど今になるとアキラと安田くんがうまく繋がらなくて、それにも驚いている

 

 

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「溺れるナイフ」に溺れる

ああこれは。「あの頃」の話だ。

と思った。勝ち負けがつけられないものなのに負けたくないと思ったり、むやみやたらに叫び散らかしたくなったり。何かに対して虚勢を張り、何かを信じ、何かを怖れ、何かと戦い、何かに縋りたくなり、何かを探し、何かを諦めたような気持ちになり、それでも何かを求める。これは間違いなく中高生のあの頃の感覚だ。と思ったのだけれども。

よくよくその頃の自分を思い返してみればそれはまあ健全なもので、世界はいつも自分に対して優しいと思っていた。「この感覚は身に覚えがある。」と、確かにそう思ったけれど、それは自分自身が体感したことではなくて、多分あの頃触れていたものから得た感覚なのだろうなと思う。よく「青春特有の」という言葉で表現されるこのひりひりした感じ。わたしにとっては、例えば山田詠美や、嶽本野ばらや、壁井ユカコやなんか。

最近こういうひりひりしたの少ないよなあと思ったけれど、気づかないうちに私も少し大人になっていて、出会う機会が少なくなっていただけかもしれない。

 

 

考察(という名の殴り書き)

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  • 「ナイフ」は何を象徴しているのか

原作者の朝倉ジョージ曰く、「ナイフ」は「十代の自意識」であるとのこと。初めは、「ナイフ」が何を意味しているか分からなかった。しかし、その言葉を見て改めて考えてみると、中でもコウがナイフと重ね合わせて描かれていたのではないか、と感じた。

 

海に捨てられたナイフが沈んでいくシーンは、夏芽に「すまんの」と伝えながら沈んでいくコウのシーンにどうしても重なった。

 

 

  • アクセサリーと浮雲の神の守り

二度目の火祭りの日、夏芽はコウにもらったアクセサリーをつけている。しかし、最後のコウの舞のシーンでは、それはコウの右腕にある。夏芽が気を失ったあと、コウが夏芽の腕からそれを持って行ったことは間違いない。

 

初め、夏芽にそれを渡したとき、コウはそれが「お前のことを守ってくれるかもしれん」と言った。しかし、夏芽は遠くに行くべき存在である。そのため、浮雲の神の守りは夏芽に必要ない。必要ないというより、あってはならない。アクセサリーを自分の手元に戻したことで、浮雲の神の守りから夏芽を解き放ったと解釈できる気がする。

 

そして、コウは浮雲で神さんと共に生き続ける。そうすることによって夏芽を禍々しいものから遠ざける。自分が浮雲に存在し続ける限り、悪い出来事は全て浮雲に封印する。舞の中で、アクセサリーをつけた右腕を強く握るコウを見たとき、そんな決意が見えた気がした。(ナイフ=コウと見ることができるなら、コウがそこにいる限り禍は浮雲に残り続けると表現していると見ることができる)

 

 

  • わたしの神さん

夏芽にとってコウが神さんであったのと同様に、コウにとっても夏芽は神さんだったのではないか。白装束を着たコウが聞いた「殺せ」は、後の夏芽の言葉、コウにとっては神さんの言葉だったのではないか。

 

浮雲の神と生きる力を持つコウと、遠くに行ける力を持つ夏芽。特別な2人の間に自分が入ることはできないと大友は言う。夏芽とコウは、互いに全く逆の力を持つがゆえに強く惹かれあったのではないかと思う。

 

 

好きなシーンなど

  • 大友との映画の前夜、夏芽がペディキュアを塗るシーン

このシーンは、特に印象に残ったシーンだった。

 

物語の中で、コウは青、大友は赤で表現されている。一般に青には静、赤には動のイメージがあるが、確かにコウと大友にもそれぞれそのようなイメージが無くはない。

しかしそれ以上に、コウには"激しい"、大友には"穏やかな"イメージがある。そう思うと、コウが海、大友が椿で表現されているのが、とても相応しくて、そして美しく感じられる。

特に、大友の椿。わたしは赤といえば、炎や薔薇を連想する。例えば炎のような赤の人といえば、渋谷すばる。薔薇のような赤の人といえば、堂本光一。そんなイメージ。だけど、大友はそのどちらとも違う気がする。

赤い椿の花言葉は「理想の愛」「謙遜」「控えめな美点」「控えめな愛」そして「気取らない美しさ」。大友が忘れられず調べてみたら、より一層しんどくなった。

 

青で塗り始め、コウを思い出し、一本赤で塗る夏芽。それだけでも心にずっしりくるのに、さらにそれに気づく大友。「椿みたいじゃ」という大友…

 

 

  • コウとの最初のキスシーン

川縁で夏芽がコウに写真集を見せた後のキス。わたしももう良い大人なのに、初めて観たときは息をするのも忘れて見入ってしまった。

 

 

  • 大友とのキスシーン

これは、もう!本当にごちそうさまです!最初から最後まで恋で溢れた…特に離れた後の気まずげな表情から、笑う夏芽を見てホッとしたような笑顔に変わる大友に心を奪われてしまった………

 

前のコウのキスシーンにしても何にしても、ひとつの映画のキスシーンでこんなに何度も興奮することある?監督とは絶対絶対良い酒が飲めるな………

 

 

  • 「大友といると、明るい気持ちになれる」

物語を通してコウと大友は対比されている。「お前に何もしてやれん」と言うコウと、「頑張らせて」と言う大友。わたしは大友のモンペだから「もう!大友くんにしといてよ!頼むよ!」って何度となく思ったけれど、そういうことじゃないんだろうな。夏芽が神社で願った「普通の幸せ」は、大友が与えてくれるものとは違ったのだろうか

 

 

  • 夏芽が大友に別れを告げるシーン

「俺、遠距離でもええよお」「大好きじゃ」というまっすぐな思いも「コウか?」と気づいてしまうところも。切なくて胸が苦しくなった。大友、心から幸せになってほしい。だけどきっと、大友はわたしが願わなくたって幸せになれると思っている

 

 

 

【以下、2019.5.10加筆】

ここまでが、重岡大毅に完落ちする前のわたしが書いた文章なんですけど。当時のわたしよく冷静にストーリー追えてたな………

いま観たら、大友が出てくるたびに発狂する気しかしない。キスシーンなんて、人間の形を保ったまま見る自信がない。けど、重岡くんに対する感情が前とは変化したいま、もう一度改めて観たい。

 

溺れるナイフ」は、重岡大毅さんが気になり始めたわたしが最初に見た彼の出演作でした。この作品の登場人物誰もがそうだけど、大友は大友で。重岡大毅ではなくて。魂の乗っかったかのような演技に、素直に惹き込まれました。テレビ誌で重岡くん自身もターニングポイントと語っていたけれど、改めて大友、素晴らしかったなと思います。

 

多分、他の誰かが大友を演じていたとしても、きっと「ああ、この役重岡くんにやってほしかったな」って思う気がする。

熱くて、優しくて、少し不器用で、

真っ直ぐな男の子。そんな役を演じる重岡大毅さんが、わたしは一等好きです。

 

この映画を観たせいで、「葛藤する重岡大毅」が性癖になってしまいました!!!!とってもとってもありがとうございました!!!!!!!!!!

安田章大さんのどこが好きですか?

例えば人からこう問われたとしたら、わたしは数多ある理由の中でも早い段階で「安田さんの書く文章が好きです」と答えると思う。もちろん入りはビジュアルだったり彼の作った曲だったりで、むしろ初めは安田さんの書く文章があまり得意ではなかったのだけれど。

わたしはこれまで、平均より少しばかり多めに本を読んできたと思う。それだからなのかなんなのか、文法や言葉の使い方がけっこう気になるタチだ。例を挙げると、よろしくお願いいたします、のいたしますを平仮名で書く人が好きだ。面倒くさいやつめ。そんなわたしは初めのころ、安田さんの文章に違和感ばかり感じていた。

コロケーションというと英語学習の場でよく聞かれる言葉だと思うけれど、日本語の世界にも相性のいい言葉の組み合わせはもちろん存在する。例えば「花びら」だったら、「舞う」「散る」。逆に花びらに対して「咲き誇る」を使うことは滅多にない。

このコロケーションが安田さんの文章には極端に少ない。それに気づいたのは、桜の写真とともにあげられたボク。を読んだときだった。そのことによる違和感は確かにある。安田さんの文章の違和感の一因と言えると思う。でも、それ以上に言葉のひとつひとつがその文章のためだけに選ばれたもののようだと気づいた。よくある表現や綺麗に見える言葉で簡単に丸めるのではなく、安田さん自身がそのとき選んだ言葉で伝えてくれるから、ほかの誰でもない安田さんの気持ちや考え方、見たものが伝わってくる。これは、これまで整備された文章ばかりを読んできたわたしからすればとても新鮮で、驚きに満ちた発見だった。それからというもの、レンジャーやボク。を読むたびにわたしの中で安田章大という存在が少しずつ立体的になっていくように感じていた。

 

4月、すばるくんの会見。安田さんの背中の怪我について明らかになった。テレビやその他媒体で安田さんの姿が見られなくなった。ボク。の更新も止まったけれど、それでもレンジャーだけは何事もなかったかのように続いていて。正直に言ってしまえばそれで安心できるなんてことはなくて、強気でいられる時と弱気になってしまう時が交互にやってきた。長い長い2ヶ月だった。

そして、7月2日。安田さんに何かがあったことを、TwitterのTLのざわつきから知った。一瞬目の前がぐらっとして、耳の奥からざわざわいう音が聞こえた。自担に何かがあるってこういうことなんだと初めて分かった気がした。慌てて調べると詳細は分からないまでも、良かった、ありがとうの声。とりあえず最悪の事態ではないらしいということは分かってもなお落ち着かず、ジリジリしながらメールを待った。

「いつも応援してくださっている大切なエイターの皆様にお伝えしたいことがあります」という安田さんの言葉を聞いて、心のざわめきは最高潮に達した。「安田章大の体調に関するご報告」とタイトルのつけられたそのメッセージ動画で、安田さんはこれまでのこと、これからのことを丁寧に話してくれた。

本当に本当に驚いた。背中の怪我よりももっと大きな何かがあるんじゃないかとは薄々気づいていた。だけど、その何かは想像を簡単に超えてきた。髄膜腫がなんなのかは正直よく分からない。それでも、大きなことだということは分かる。何も気づかなかったし、何も分からなかった。そして何よりも、わたしは髄膜腫を患う前の安田さんを知らない。

 

7月3日、久しぶりにボク。が更新された。もう更新されることはないんだと勝手に決め込んでいたから、嬉しさと少し怖さがあった。読んで、安田さんの強さと愛の大きさに心が震えた。今をなるべく包み隠さずに表現したいという言葉が、こんなに心に迫ってくることってある?安田さんが教えてくれる安田さんを、なるべく真っ直ぐに受け取って、それを信じていたいと思った。7月5日のボク。でもそれは同じだった。

そして同時に、絶対に安田さんに”病気をしたけれど頑張っている人”というレッテルを貼りたくないと思った。「病気をしたのに」「病気をしたから」その言葉で安田さんを分かったつもりになりたくない。済ませたくない。「病気」という言葉から自分が作ってしまうイメージに、安田さんを押し込めたくない。わたしは病気になる前の彼を知らない。もちろん病気になる前の文章を、考え方や感じ方を知らない。だからそう思うのかもしれないけれど。安田さんを知ってから日も浅いけど、少しは安田さんのことを知れたと思っているから。エゴ丸出しでもその知れた安田さんのすべてを「病気」というひとつでくくりたくない。もっともっと感じたままにいたい。もっともっと安田さんのことが知りたい。

もちろん、病気をして考え方が変わる、病気をしたからこそ見える世界はあるんだろうと思う。それをそのように安田さんが伝えてくれるのならば、素直に受け取りたい。だけど、受け手であるわたしが、勝手に判断したくない。なるほど、この時はこう思ってたんだろうね。こんなことがあったんだもん、こういう考え方にもなるよね。って、そう思うのは簡単だけど、それは嫌だ。

すごく勝手な考え方だなと思う。彼の思いには合わないかもしれないとも思う。そして、大きな病気をした、その事実を忘れることはできないけれど。

安田さんが頑張ってるからわたしも頑張ろうって、例え安田さんが大きな病気になってなくても思うよ。安田さんの強さと優しさと愛がとっても大きくて嬉しくて泣きそうになるけれど、それでも、だからこそ止まり木になってもらうのはどうにも疲れてしまってもう歩けない時だけにしたいよ、わたしは。

 

なんて、まるっきり深夜のテンションだけどお昼間でした。

ツアー、楽しみだな。安田くん、本当にありがとう。大好きです。

立ちはだかる困難に 光れヒューマンストーリー

すばるくんのジャニーズ事務所退所の公式発表が出て、今日で3日目。今、リビングで関ジャニ∞のアルバムを古い方から流しながら、この文章を書いています。

この記事は、お見苦しいところや矛盾もきっと多々出てくると思いますが、完全に自分のために残そうと思っていますので悪しからず。

 

わたしには夢がある。

それは、小学校の低学年のときに思いついて、この歳になるまでずるずると抱き続けてしまったもの。どうして夢を叶えたいか、その理由もしっかりあるし、やろう・やらなければという気持ちもある。でも、それに向かうための努力をしているのかと今問われれば、「していません」と答えるのが正解。

「いつか叶えられれば良い。今すぐでなくても」「夢が大きく曖昧になりすぎてしまった」「本気だからこそ、軽い半端な気持ちで取り組めない」

そうずっと思い続けてきた。だけど、今なら分かる。これは、全部間違いなく言い訳。少しずつでもそれに向かっていかなければ、このまま一生終わる。

 

先日、「ばしゃ馬さんとビッグマウス」を借りてきて観た。観ようと思ったきっかけは、安田くんが主演だから。それ以上でも以下でもなかった。

安田くんはコメンタリーで、どちらかの気持ちになって喧嘩のシーンを観るとイラっとするかもと言っていたけれど、わたしは天童にイラっとした。それは、馬淵さんの気持ちになって観たからじゃなくて、多分わたしが天童に似ているから。やればできるんだって心から信じてる。でも、だからこそ取り組めなくて。まだ一つも完成させていなくて。そんな天童のことがよく分かるからこそ、何もやろうとしない彼がウザかった。

1度目観終わったとき、すこし退屈だったなと思った。「わたしはもっと分かりやすく、未来に向かって進んでいく物語が好き。諦めないのが好き」そう思った。

でも、2回り目を観た後、心に柔らかい棘を確かに押し込まれたみたいな気持ちになった。「わたし自身はどう?」1回目退屈だと思ったのだって、本当は「そんなに上手く変われるもんじゃない」って心のどこかで思っていたからかもしれない。「本気のことにほど、軽い気持ちでは取り組めない」なんて言って。戦わないで逃げる。観ているときは気づかなかった。そういえば、天童は「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」って言っていた。やっぱり変わる前の彼はわたしに似ている。

わたしも、天童義美みたいになれるだろうか。なりたい。そう強く思った。

 

その矢先に飛び込んできた渋谷すばる脱退の知らせ。4月12日木曜日。初めそれを見たときは、そんなわけないと思った。「バラエティー路線が嫌?昔の曲を歌いたくない?え?そんなわけない」いつもあんなに楽しそうに下ネタを言い、自ら被り物を被っている彼が。つまらない時にはつまらない顔をする彼が。

だけど、「そんなわけない。すばるくんは絶対にいなくならない。ガセだ」とは言えなかったし、言いたくなかった。ミュージシャンとしてやっていくためグループを抜けたいというのが本当に彼本人の意志ならば、それを否定したくないと思った。

 

だけど、それが徐々に苦しくなった。「そんなわけないじゃん!フ●イデーはすばるくんの何を知ってるの?あんなに関ジャニ∞への愛にあふれた人だよ」と手放しで思いたかった。通勤電車でへそ曲がりを聞いて少し泣いた。この頃から、自分の中にある覚悟を少しずつ固め始めた。母と何度も話した「”絶対”なんてない」

 

4月15日日曜日。「大切なお知らせがあります」メールを受信。「ああ、来たな」と思った。出かける前だったから準備を早く済ませて。11時になってすぐにサイトにつないだけど、もちろんつながらなくて。でも、SNSじゃなくてまずは本人の言葉で知りたいと思ってつながるのを待った。

お知らせを読んだとき、涙は出なかった。事実を事実として受け止められたし、割と冷静だった。

それから、メンバーからのメッセージがあって良かったと思った。

関ジャニ∞を好きになってすぐの頃から、全員のことが大好きだった。7人個人個人も好きだったし、みんなの関係性が好きだった。グループが結成された以上、いつか解散があるのは当然のこと。だから、解散の日まで、全員で走り抜いてほしいと願っていた。誰かがいなくなって、見られなくなるのが嫌だったし、それによって残るメンバーのことを想像したくなかった。だけど、メンバー一人一人の言葉を見て、この人たちについていこうと、自然に思えた。

そして、すばるくんの言葉。「eighterとして」というよりは「わたし個人として」、渋谷すばるという人は、なんてかっこいいんだろうと思った。綺麗事を言うようだけど、退路を断って夢に向かうという選択をしたことに対して尊敬で震えた。失うものなんか何もないわたしがいつまでも動き出せずにいるのに、すばるくんは関ジャニ∞という、ある意味「出来上がった」場所を出てでもやろうとしている。惰性に引きずり込まれずに。そこに至るまでにどれだけ悩み、考えただろう。それにはどれだけのエネルギーを必要としただろう。そして、すばるくんはそこから逃げずに心を決めきり、動き始めたんだと理解できた。

 

メンバー同席の会見。無駄な憶測の余地を与えない、素晴らしい会見だったと思った。この人たちを好きになれて良かったと、心の底から思えた。

 

ただ、そうしたときにどうしても気になるのは安田くんのこと。「安田くんらしい」「関ジャニ∞らしい」「(笑)」みたいな意見もたくさん見た。だけど、わたし自身は逆立ちしたってそうは思えない。人一倍感受性が強くて、仲間思いの安田くんが背中の打撲といういわば「自分の都合」で会見を欠席する。どれだけ悔しかっただろう。どんなにやりきれなかっただろう、と思う。身体も心も疲れ切っていないかなと心配になる。出席できなかったことが、重苦しい石になって安田くんの心に残り続けませんように、心からそう願う。

だけど、わたしたちファンは想像しかできない。もしかしたら、安田くんにとって「会見に出席できなかった」事実は、わたしたちが思うほどに重大ではない可能性だってある。こう思うのには、安田くんが何のために会見に臨みたかったか、今は分からないというところも大きい。それから、安田くんが傷ついていてほしくないという現実逃避でもある。それでも彼は「心で繋がっているから」「しぶやんなら大丈夫だから」と言うような気もする。

本当に分からない。彼らの絆や本当の気持ちは彼らにしか分からなくて、わたしたちはそれを媒体を通して想像するしかない。やっぱり、この出来事をめぐってわたしが辛かったことの一つは、安田くんの口からその気持ちを聞けなかったこと。寄せてくれた文章から、もちろん安田くんの思いは伝わっている。だけど、わがままだから、彼の表情を見て彼の口から思いを聞きたかった。せめて媒体を通して想像したかった。

 

だからかな。昨日関ジャムの「島唄」を見たとき、初めて涙が出てしまった。テレビで見たときには、なんにも分かってなかった。安田くん、すごく優しい顔ですばるくんを見るんだな、と思ったぐらいで。その裏側で安田くんが思っていたことなんて、何も感じ取ってはいなかった。だけど、あのとき安田くんはもうすばるくんの思いを知っていたのかと思って見たら、もうだめだった。

 

日曜日からずっと曲が聞けなかった。だけど今日、ようやく聞けた。あえてあの日と同じ、「へそ曲がり」。一声目で涙が出た。聞き終わって口ずさんでみて、また泣けた。

やっぱり曲を聞くとまだ胸がいっぱいになる。関ジャニ∞の曲が好きだから、今は純粋な気持ちで楽しめないのが辛い。けれど、いずれ聞けるようになる。だからきっと大丈夫。

 

横山さんも言っていた通り、これから先すばるくんも関ジャニ∞も険しい道を進むことになる。これまでだってたくさんのことを乗り越えてきて、そしてまた今、新しい戦いに乗り出そうとしている。

すばるくんのことを、応援したい。だけど、多分いったんはお別れ。すばるくんはきっと、文字通りすべてを擲つ覚悟で行くんだと思う。そして、本当に成功するまで、わたしがすばるくんを見られることはないんじゃないかな。だから、何をもって成功というかは分からないけれど、絶対絶対成功してほしい。たとえ思い通りにいかなくたって、妥協しないでやれるところまでやり抜いてほしい。

そして、6人の関ジャニ∞のこと、精一杯応援していきたい。それがどういう形になるのか、まだ想像ができないけれど。まったく新しいものでも、そうでなくても良い。がむしゃらになる彼らに、がむしゃらについていきたい。

大倉くんが言っていた「変化」という言葉。すばるくんが変化していくように、関ジャニ∞が変化していくように、わたしも変化していく。だから、「ずっと」なんて簡単には言えないけれど。思いがある限りはずっと、関ジャニ∞渋谷すばるを支えていきたい。

 

夢を言葉にするのは簡単だけど、そのために行動を起こすことがどれだけ難しいことか。いつも身をもって感じている。だからこそ、すばるくんが新たに歩み始めたことがまぶしくて、わたしを照らす道標になってくれる。今の環境でだって歌を歌い続けることはできるのに、そこに甘えないという決意が。この道で、自分の責任で生きていくという思いが。どうか、会見でのすばるくん自身の言葉と、メンバーの言葉が、今後のすばるくんを支え続けていきますように。

 

 

最後に今回の件を経て、思ったこといくつか

 

 

「味園ユニバース」を観た

渋谷すばるさん主演の「味園ユニバース」 を観ました。今の心境をひとことで表すとですね、ポチ男ロスです。(ポチ男ロスなのか茂雄ロスなのかはひとまず置いておいて)

わたしが約100分間観ていたのは、「演技の上手い渋谷すばる」ではなく、「ポチ男であり茂雄」でした。これから先、渋谷すばるを見ることはあっても、ポチ男に会えることはないというのが切ないです。ポチ男がこの世のどこかで息をしているんじゃないかと信じたい。それぐらい、ポチ男は生きた一人の男でした。

 

見た感想を残しておきたくて書きます。自分の中の「味園ユニバース」を薄めたくなくて、公式のキャッチコピーやプレスリリース、予告ですらも観ていません。もちろんレビューや感想も。そんなこんなで、ちょっと解釈がおかしかったり、間違っていたりするかもしれません。わたしが見た味園ユニバースです。わたしの手垢でぎとぎとな味園ユニバースです。ご承知おきください。基本、記憶に残った好きなシーンベースで書きたいと思います。ネタバレありです。

 

すいかの種を飛ばすポチ男とカスミ

茂雄の働いていた工場と実家に行き、彼が傷害事件を起こしたことを知って帰宅したカスミに対し、記憶が戻りつつあるポチ男が「あんな、ちゃんとは思い出されへんのやけど、俺は危ないと思う。」と告げる。そんなポチ男に、ポチ男の働いていた工場は跡形もなかった、ポチ男の過去についてなんの手がかりも得られなかったとカスミが嘘をつくシーン。

それまでのどことなくぼんやりとした感じから、徐々に感情を見せるようになっていくポチ男。彼の過去を知りながら、それを知ったことを悟られまいとするカスミ。とりたてて幸せでも不幸せでもない日々が、もしかしたら変わってしまうのかもしれないと感じさせられた。

そんな中、すいかの種を飛ばすカスミ。「あんたも飛ばしてみぃ」と、ポチ男にもやらせるカスミ。カスミはポチ男にもすいかを食べさせること、種を飛ばさせることで、あえて"なんの変哲もない"日常を作ってくれたのかなと思う。「あんたも飛ばしてみぃ」と言われてポチ男は救われただろうな。自分は危ないのかもしれない、してきたことをしっかりと思い出せないという漠然とした大きな不安の中、それでも日常の中に置いてくれる人がいるということ。

競うように種を飛ばす2人が、とても愛おしく感じられた。(立ち上がって飛ばすポチ男かわいい…)

 

カスミの親指

茂雄の記憶が戻り、カスミの前で元の仲間ショウを一方的に殴りつけてスタジオを出て行った後のシーン。裏の雇い主タクヤに仕事をもらいに行った後、ベンチで座る茂雄の前に、彼が置いていった荷物をまとめたカスミがやってくる。「ライブ、今日やで」というカスミに、「そんな金にならんもん全然意味ないわい」と言う茂雄。「あんただけには言われたくないわ」「ほな帰れや」そしてカスミが茂雄を殴る。

このシーンでは、指を一本一本ゆっくりと開いていったカスミが、ぎゅっとそれを握りしめて、茂雄に向かって突き出すところが印象的だった。その前に、4本指を立てて「うちの世界はこれだけで足りんねん。おじい、スタジオ、マキちゃん、赤犬」と言ったときには折られたままだったカスミの親指。茂雄を殴る前に他の指と同じように開かれた親指は、カスミにとっての世界の5つ目の要素(ポチ男)を意味していると思った。初めは「赤犬に必要なだけ」だったポチ男が、それだけで1つの必要な要素になりつつあったのではないだろうか。それは、未来しかないポチ男とは逆に、過去しかないカスミが久しぶりに見つけかけていた1つだったのではないか。その5つをぐっと握りしめて、カスミは自分の気持ちを茂雄にぶつけたかったのかもしれないと思った。

 

タカアキという存在

映画の中では、タカアキについて多くは語られなかった。だけど、この映画を考える上で、タカアキは非常に重要なピースの1つであると思う。タカアキは、バンド「赤犬」のボーカルで、仕事中に全治2ヶ月の怪我を負う。その結果、ポチ男にボーカルの座を奪われることとなる。

もちろんタカアキがライブに出れなくなったのは、自分が怪我をしたせいである。それが元の理由とはいえ、ボーカルをポチ男に取って代わられる。そして、ボーカルが変わったことだけが理由ではないにせよ、その後メンバーはやる気になる。タカアキが主役の物語だったら、大きな屈辱、挫折だろう。

印象に残っているシーンがある。ユニバースでのワンマンライブが決まったことを、カスミが赤犬メンバーに伝えたときのこと。異議はないかを聞くカスミに、ざわつくメンバー。タカアキは手を挙げていた。自分が歌いたいのだと伝えたいのだと思った。だけど、誰もそれに触れることはない。異議はないな、というカスミによってその場は閉められれる。そして、できたワンマンライブのポスターは「稀代のニューカマー」、ポチ男だ。

だが、スタジオを出て行ったポチ男はライブ当日、ユニバースには現れなかった。このユニバースでのライブのシーンでは、彼の歌っているときのいきいきとした表情と、茂雄を見つけたときの虚無の表情の対比が素晴らしかった。そして、ダイブ。(劇中では、観客の悲鳴と「タカアキさんがダイブしました」というスタッフ、スタッフに運ばれてくるタカアキの姿が映るのみで、ダイブのシーンは無かった)初めは、なんでダイブしたんだろうと思った。メンバーもあっさりしたもので、なんで今するん、ポチ男準備しとけよ、という程度。だが、その後茂雄が歌う姿を見て思った。タカアキはボーカリストとして茂雄に自分の場所を譲ったのだと。きっと、嫉妬とやるせなさと尊敬とともに。葛藤を抱えながら、彼はダイブしてしまっていたのでないか。

タカアキは初めの1回以外、自分が歌いたいと声に出して言うことはない(言ったときもカスミに松葉杖を蹴られて転んで終わった)。ダイブしたときの表情も分からない。だが、多く語らないことが、かえって彼に大きな存在感を与えていると感じた。

 

カスミの「しょうもな」 

カスミはよく「しょうもな」と言う。マキちゃんの名前を出すと喜ぶ医者に対し、ポチ男の面倒を見る自分を「お母さん」と言ってくるマキコに、そして、指長いなと手に触れてくるポチ男に…。本当にしばしば「しょうもな」と言う。そしてこの映画の最後も、カスミの「しょうもな」で幕を閉じる。

カスミはほとんどの場合、眉間に皺を寄せた不機嫌な顔をしている。例えば、驚くシーンや悲鳴をあげるシーンもなかったと思うし、逆に大喜びするシーンや大泣きするシーンもない。全体的に外に見せる顔は温度が低く、いつも淡々と話す。

しかしラストで、ユニバースで歌うポチ男を見てカスミは笑う。堪えきれずといったように顔を綻ばせ、「しょうもな」と言う。

野外ライブに乱入してきた挙句倒れたポチ男を自分のスタジオに連れ帰ったシーンや、元の仲間から茂雄を救い出してユニバースに連れていくシーン等。いくらカスミといえども一悶着あった(感情を見せた)だろうと思われるシーンは、意図的にかそうでないかは分からないが描かれていない。だからこそ、このカスミの笑みが、深く深く印象に残った。

 

『古い日記』

言わずと知れた和田アキ子さんの名曲。(「ハッ」好きとしては見逃せない)劇中でしばしば出てくるこの映画を構成する重要なもののひとつだ。

ポチ男は、夜中にカラオケでこの曲を歌い、自分にはこれだけしかないと言う。茂雄の義兄も、茂雄のことを聞きに来たカスミに対し、茂雄のものはこれ(茂雄の父が歌う『古い日記』と、歌い終わった後の父と茂雄の会話が入ったカセットテープ)だけだと言う。茂雄とポチ男のどちらにとってもこの曲しかないわけだが、それが持つ意味合いは茂雄にとってとポチ男にとってでは異なっていると思う。

茂雄にとっては、お父ちゃんとの思い出。歌手になるという思い。だが父の死後、茂雄は荒れ、それを捨てて(=家に残して)家を出てしまう。

ポチ男にとって、この曲は初めは過去の自分との繋がりだった。だがその後、この曲には新たな意味が追加されたと思う。カスミが持ち帰ったカセットを、おじいが勝手に流していたのを偶然耳にし、ポチ男は記憶を取り戻した。このとき、おじいはカセットに入った茂雄と父の会話を聞き、「お父ちゃんの言う通りやな(=人が何かを始めるのに遅いということはない)」と言う。この言葉により、ポチ男にとってこの曲は、人はいつでも変われるという意味合いを持つものになったのではないかと思う。(後述しますが、記憶を取り戻したとき、彼はまだ「茂雄」ではなく「ポチ男」だったとわたしは考えています)

 

ポチ男と茂雄

記憶を取り戻したポチ男は、おもちゃの銃を持って自分の子供、マサルのところへ行く。このとき、彼はまだ人はいつでも変われると信じる「ポチ男」だったと思う。姉に「俺は変わったんや」と言うポチ男。それに対し、「刑務所に入ったくらいで変われるならわたしも入りたい」と返す姉。ポチ男はきっと、刑務所の中でではなく、「ポチ男」として暮らす中で自分は変わったと思っていたのではないだろうか。激しい応酬の中、「そんなに嫌なら(豆腐屋を)辞めたらいい」というポチ男に、姉は「あんたは何も変わってない」と言い放つ。全てを捨てた「茂雄」のままだ、と烙印を押される。その後、誰もいなくなった店先に茂雄は立ち尽くす。彼にとって、やはり自分はポチ男ではない、茂雄だったのだと思わされた瞬間だったのではないだろうか。

その後、カスミが「ポチ男」と言う度、彼は「茂雄や」と律儀なほどにしっかりと返す。自分はやはり変われなかったのだ、そんなに世の中は甘くないと、自分自身に言い聞かせている言葉に聞こえる。

顔を洗い、鏡を見ているシーンも似ている。茂雄が鏡を見るシーンは2度ある。1度目は襲われた後。血を洗い流し、鏡で自分の姿を見て「誰や」と呟く。2度目は昔の仲間と仕事をしに行く前。彼は何も言わず、鏡を睨む。言葉はないが、胸の内で「誰や」「茂雄や」と自分に言い聞かせているようにも見えた。

茂雄が元の仲間に嵌められたことに気づいたとき、カスミは彼女自身のために茂雄を救い、ユニバースへ連れて行った。タカアキが歌えないとなったとき、カスミは言う。「こっからはあんたが決めろ」この言葉には、歌うかどうかは茂雄が決めろと言っているだけではなく、ここから先どう生きていくか決めろと言っているようにも捉えられる。全てを捨て、ドブのような血の臭いをさせる茂雄として生きるのか。人は変われると信じ、大切なものを一つ一つ増やしていくポチ男として生きるのか。

そしてしばらくの逡巡の後、茂雄は歌う。ポチ男として生きることはできなくとも、ポチ男のように生きたいという気持ちの表れではないだろうか。圧巻の歌声はさすがだった。(あと個人的には、茂雄が1番すばるくんになっていたシーンだと思った)

 

その後の茂雄

(※多分に妄想です。根拠一切なしのやつです。)

わたしは、茂雄が赤犬のボーカルとして歌ったのは、あの2回で終わりだと思う。

茂雄は、あのとき赤犬に必要だった。ライブに出るため、メンバーのやる気を出すため。赤犬を完璧にするために必要だった。だが、本当の意味で赤犬を完璧にするためには、そこにはタカアキが必要だ。

カスミはポチ男ノートの「記憶が戻りつつある?戻ったら」と書いた部分をタカアキの写真で上から隠していた。戻ったら、いなくなったら。きっとカスミはポチ男がいなくなることを考えたくなかった。だけど、元を正せばポチ男はいなかった人。いなくなったら、元に戻るだけ。赤犬のボーカルはタカアキに。それを自分に言い聞かせるためにも、カスミはタカアキの写真を使ったのではないか。

そして、カスミも茂雄を説得するシーンでは認めていた。茂雄に歌ってほしいのは、「ただ単純にうちが見たいだけや」と。赤犬のためにも茂雄が必要だが、何よりも自分のために茂雄が必要であるという気持ちが隠されていると思う。

それが恋なのか、家族に向けるような愛なのか、なんなのかは分からないけれど、きっと赤犬で歌うことが無くなっても茂雄は急にカスミの前から消えはしないと思う。カスミの世界の5つ目として、ずっとカスミの側にあってほしい。なんの根拠もないけれど、そうじゃないかな、そうだといいなと思う。

 

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